ケネディ(読み)けねでぃ(その他表記)John Fitzgerald Kennedy

精選版 日本国語大辞典 「ケネディ」の意味・読み・例文・類語

ケネディ

  1. ( John Fitzgerald Kennedy ジョン=フィッツジェラルド━ ) アメリカ合衆国第三五代大統領。民主党。一九六一年大統領に就任し、アメリカの威信回復を目ざして、「ニューフロンティア精神」を提唱。部分的核実験停止条約を結び、米ソ両国間の緊張の緩和をもたらした。六三年テキサス州ダラスで遊説中に暗殺された。アメリカでは、しばしば「JFK」と略して呼ばれる。(一九一七‐六三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケネディ」の意味・わかりやすい解説

ケネディ(John Fitzgerald Kennedy)
けねでぃ
John Fitzgerald Kennedy
(1917―1963)

アメリカ合衆国の第35代大統領(在任1961~1963)。JFKと略称する。5月29日ボストン郊外のブルックリンに生まれる。父ジョゼフはアイルランド系移民の3代目で、銀行、映画産業などで成功し、F・D・ルーズベルト政権下では駐英大使を務めた。母ローズはボストン市長フィッツジェラルドの娘。9人の兄弟姉妹のうち次男で、名門チョート校を経てハーバード大学で政治学を学ぶ。父の任務に随行して第二次世界大戦前夜のヨーロッパを視察、卒業論文『イギリスはなぜ眠っていたか』にまとめ、ベストセラーとなる。日本との開戦後、海軍に志願、ソロモン沖海戦で、指揮していた魚雷艇が駆逐艦天霧(あまぎり)に撃沈された際、重傷の部下を守って泳ぎ抜き英雄となった。戦後、通信社記者を経て1946年マサチューセッツ州第11区から下院議員に当選(同期にニクソン大統領がいる)、1952年には現職のロッジを破って同州から上院議員に選出された。翌1953年ジャクリーン・ブービエと結婚(子供はキャロラインとジョン2世の2人)。戦争で負傷した背骨の悪化で入院、危機を脱したあと、療養中に『勇気ある人々』を著し1957年度のピュリッツァー賞を獲得した。1956年の民主党大会で副大統領候補をねらって敗れたが、1958年上院に再選され、1960年の大統領選挙で民主党候補指名をかちとった。アイゼンハワー時代の沈滞を破る清新な候補として「ニュー・フロンティア」のスローガンを掲げ、共和党候補ニクソン副大統領とのテレビ討論で優位にたち、激戦のすえわずかの差で勝利を収めた。カトリック教徒として最初の大統領であり、当選した大統領ではアメリカ史上最年少である(43歳)。1961年1月の就任演説ではアメリカの前進を訴え、国民に国家への献身を呼びかけた。

 雄弁と才気に恵まれ、記者会見などにテレビを巧みに用いてイメージ豊かな政治を行い、スタッフには、ハーバード大学はじめ各界から「ベスト・アンド・ブライテスト」と総称される多くの知識人を集めたが、スローガンの華々しさに比べて議会との関係は円滑を欠き、内政にはみるべき業績はない。外交面では、就任早々キューバ侵攻を試みて失敗し、ウィーンの巨頭会談でソ連のフルシチョフ首相にあしらわれるなど、厳しいスタートであったが、「平和部隊」を創設し国民の奉仕精神と開発途上国への援助を結び付けたことは賞賛された。1962年10月のキューバ・ミサイル危機では、核戦争の危険を賭(と)し海上封鎖でフルシチョフと対決、キューバ不侵略の公約と引き換えにミサイルと爆撃機の撤去をかちとった。「核戦争の淵(ふち)をのぞき込んだ」この経験から、1963年6月、アメリカン大学の卒業演説で「平和への戦略」を呼びかけ、7月には米英ソ3国間の部分的核実験禁止条約の成立をみた。だが、人種問題の前進、中国との国交回復などの懸案を抱えたまま1963年11月22日テキサス州ダラスで暗殺者の凶弾に倒れた。わずか1000日の任期であった。

袖井林二郎

『ジェームズ・M・バーンズ著、下島連訳『ジョン・ケネディ――その生いたちと政治的横顔』(1961・日本外政学会)』『アーサー・M・シュレジンガー著、中屋健一訳『ケネディ――栄光と苦悩の一千日』(1966・河出書房)』『ディビッド・ハルバースタム著、浅野輔訳『ベスト&ブライテスト』全3巻(1976・サイマル出版会)』



ケネディ(Robert Francis Kennedy)
けねでぃ
Robert Francis Kennedy
(1925―1968)

アメリカの政治家。マサチューセッツ州生まれ。第35代大統領ジョン・F・ケネディの弟。ハーバード大学、バージニア大学大学院で法律を学び、1951年司法省刑事局の弁護士となる。上院恒久調査小委員会の法律顧問を経て、1957年から労働ないし経営の不法活動に関する上院特別委員会の主任法律顧問を歴任。1960年選挙参謀として兄の大統領当選に貢献後、翌年司法長官に就任し、黒人の公民権拡大などに活躍した。1964年ニューヨーク州選出民主党上院議員に当選。貧困絶滅計画の実現などに尽力し、若者、黒人、貧困者層の人気を集めた。1968年大統領選出馬を表明したが、同年6月5日ロサンゼルスで狙撃(そげき)され、翌日死去した。

[藤本 博]

『ロバート・ケネディ著、青木日出夫訳『新しい時代』(1968・角川書店)』


ケネディ(Edward Moore Kennedy)
けねでぃ
Edward Moore Kennedy
(1932―2009)

アメリカの政治家。マサチューセッツ州選出民主党上院議員。マサチューセッツ州生まれ。第35代大統領ジョン・F・ケネディ、ロバート・ケネディの弟。ハーバード大学、バージニア大学大学院で法律を学び、兄ジョンの選挙運動で活躍。1962年に30歳で史上最年少の上院議員(民主党)として当選。社会福祉政策や人種差別撤廃政策を積極的に支持し、民主党進歩派の旗頭的存在として活躍。1979年1月上院司法委員長に就任。1980年の大統領選挙でカーターと民主党内の指名を争い、敗れた。1982年初頭からは核凍結運動の推進者として有名。女性秘書を自動車事故で水死させた「チャパキディック事件」(1969)や離婚など個人的問題が尾を引き、1984年大統領選挙への出馬を取りやめた。

[藤本 博]

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改訂新版 世界大百科事典 「ケネディ」の意味・わかりやすい解説

ケネディ
John Fitzgerald Kennedy
生没年:1917-63

アメリカ合衆国第35代大統領。在職1961-63年。アメリカ史上最初のカトリック系の,そして最年少(43歳)で当選した大統領。1840年代ボストンに移住したアイルランド系移民の子孫で,父は成功した実業家であり,イギリス大使も務めた。ケネディは1940年ハーバード大学卒業,海軍に志願,南太平洋で魚雷艇の艇長として活躍した。第2次大戦後,政界入りを決意し,民主党候補として46年には下院議員に,52年には上院議員に当選する。ケネディの選挙戦は,アイルランド系移民を中心とする都市の大衆やリベラルなインテリを支持基盤に,民主党組織よりは自分の一族,友人を中心とする個人的組織,その豊かな個人的財産を活用することを特色としている。議員活動では,基本的には民主党の反共リベラル路線をとっていた。60年の大統領選挙に立候補,ニューフロンティアのスローガン,若さ,テレビでの巧みな演出などで,共和党候補ニクソンを僅少の差ながら破って当選した。

 大統領としての治政は,63年11月ダラスで暗殺されるまで3年足らずであり,ことに内政面では具体的成果は少ない。老人医療,都市開発,教育援助,黒人への対等の市民権など計画は多くあったが,民主党保守派を含む議会勢力に阻まれて,彼の活動中には実現されなかった。むしろ比較的議会の束縛を受けない外交面で,大統領としての足跡を残したといえる。就任早々,キューバ侵攻問題でつまずいたが,ベルリン問題,キューバにおけるソ連ミサイル基地問題(キューバ危機),核実験停止等でソ連フルシチョフ首相と激しく対立,渡り合いつつ,しだいに米ソ和解の道を切り開き,63年8月部分的核実験停止条約の調印にまでもっていった。他面,中国との外交正常化は残され,彼の政権の下で軍事顧問団の名で1万6000の軍人がベトナムへ派遣され,軍事介入が進められたことも忘れてはならない。ケネディがアメリカ史に残したものは,アメリカの国力の相対的低下を背景に,アメリカ〈全能〉の夢の終わったことをアメリカ国民に知らせ,外交への〈道徳主義的〉接近法を改めて,より現実主義的接近法をとらしめようとしたことであろう。
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百科事典マイペディア 「ケネディ」の意味・わかりやすい解説

ケネディ

米国の政治家。第35代大統領(1961年―1963年)。アイルランド系の名門の出身。民主党。1946年下院議員,1952年上院議員,1961年米国史上初のカトリック系の大統領となり,ニューフロンティアの政策を掲げて国内的には革新的気分を高め,外交面ではベルリン問題,キューバ危機などでソ連のフルシチョフと対立しながらも,米ソ和解の道を模索した。1963年遊説旅行中テキサス州ダラスで暗殺された。弟ロバート・ケネディ〔1925―1968〕は兄の側近として活躍,兄の死後ベトナム戦争批判派として大統領選挙遊説中ロサンゼルスで暗殺された。末弟のエドワード・ケネディ〔1932―2009〕も1963年民主党下院議員に当選,大統領をめざしたが,1969年の不祥事で72年の大統領選に出馬できず,1980年の大統領予備選ではカーターに敗れた。エドワードは以後も上院議員に選出され続け,民主党リベラル派の重鎮として活動した。
→関連項目ジョンソンダラスニクソン平和部隊マクナマラ民主党(米国)ラスクロストー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケネディ」の意味・わかりやすい解説

ケネディ
Kennedy, John Fitzgerald

[生]1917.5.29. マサチューセッツ,ブルックライン
[没]1963.11.22. テキサス,ダラス
アメリカの政治家。第 35代大統領 (在任 1961~63) 。 1940年ハーバード大学卒業。 47年下院議員,53年上院議員,61年1月史上最年少かつカトリック教徒最初の大統領となった。ニューフロンティア政策を提唱し,対外的には柔軟反応戦略を打出す一方,中南米に対する「進歩のための同盟」計画をはじめとする発展途上国への援助を進め,国内的には景気回復と経済の安定に努めた。就任直後の 61年4月,キューバ侵攻作戦で大失態を演じたが,翌年 10月のキューバ事件では,ソ連に対し強硬な態度でのぞみ,ミサイルを撤去させることに成功した。 63年8月には部分的核兵器実験禁止条約を結び,米ソ両大国の平和共存体制の基礎を築いた。しかしベトナム問題への介入を深め,中国との関係は一段と悪化した。そして公民権政策をめぐり南部人の反感が高まるなかで,63年 11月 22日,遊説先のダラスにおいて暗殺された。文筆の才に富み,著書『勇気ある人々』 Profiles in Courage (1956) は 57年にピュリッツァー賞を受賞。

ケネディ
Kennedy, Ted

[生]1932.2.22. マサチューセッツ,ボストン
[没]2009.8.25. マサチューセッツ,ハイアニスポート
アメリカ合衆国の政治家。フルネーム Edward Moore Kennedy。ジョン・F.ケネディの末弟。1956年ハーバード大学を卒業,その後オランダのハーグにあるインターナショナル・ロースクールで学び,1959年バージニア大学で法学士号を取得。1960年から兄ロバート・F.ケネディとともにジョンの大統領選挙運動に携わった。1962年マサチューセッツ州から連邦議会上院議員に初当選,その後 7回当選を重ね,2009年に死去するまで上院議員を務めた。1969年1月上院の民主党院内幹事に就任し,将来の大統領候補と期待されたが,7月自動車事故を起こし,同乗していた女性秘書が死亡するスキャンダルに見舞われた。1980年民主党大統領予備選挙でジェームズ・E.カーターに敗れた。上院リベラル派の代表としてさまざまな場面で活躍し,2008年の大統領予備選挙ではバラク・オバマを支持した。2009年大英帝国名誉爵位を授与され,大統領自由勲章を受章した。

ケネディ
Kennedy, Benjamin Hall

[生]1804.11.6. バーミンガム,サマーヒル
[没]1889.4.6. トルケー
イギリスの古典学者。ケンブリッジのセント・ジョン・カレッジ卒業。ギリシア語の詩作で3度 Porson賞を獲得したが,最初は学生のときであった。教師生活を続け,1836年 S.バトラーの跡を受継いで母校シュルズベリー校の校長となった。単なる文法学者ではなく,生徒に古典文芸に対する生きた情熱を吹込んだ。 66年隠退の際,褒賞としてケンブリッジ大学にラテン語のポストが設けられ,これは彼の死後も「ケネディ教授のポスト」 the Kennedy professorshipと呼ばれるようになった。 67年から死去するまで,ケンブリッジ大学のギリシア語欽定講座教授とイーリ Elyのカノンをつとめた。著作には古典の編訳があり,『基礎ラテン読本』 Elementary Latin Primer (1843) ,これを底本とする『パブリック・スクール・ラテン文法』 The Public Latin Grammar (86) ,その改訂版『ラテン語小読本』 The Shorter Latin Primer (88) は現在なおイギリスの学校で使用されている。

ケネディ
Kennedy, John Pendleton

[生]1795.10.25. メリーランド,ボルティモア
[没]1870.8.18. ロードアイランド,ニューポート
アメリカの小説家,政治家。ボルティモア・カレッジ卒業後弁護士を経て政界に入り,1852~53年海軍長官として北極をはじめとする4次の探検隊を組織。ペリーの日本訪問もその一つである。一方文筆を好み,Mark Littletonの筆名でバージニアの田園生活を描いたスケッチ集『つばめ小屋』 Swallow Barn (1832) ,独立戦争に題材を取った『ホースシュー・ロビンソン』 Horse-Shoe Robinson (35) を発表。これらの好評に力を得て多くの歴史小説,風刺小説などを本名で発表した。彼はまたボルティモアの文学運動の指導者で,E.A.ポーを援助したことでも有名。

ケネディ
Kennedy, Robert Francis

[生]1925.11.20. マサチューセッツ,ブルックライン
[没]1968.6.6. ロサンゼルス
アメリカの政治家。 J.ケネディ大統領の弟。ハーバード大学卒業。兄ジョンの大統領選挙戦に事務長として活躍,当選後司法長官となった (1961~64) 。 1964年 11月ニューヨーク州から上院議員に当選。 68年3月民主党の大統領候補選挙に出馬声明。同年6月5日カリフォルニア州予備選挙に勝利を収めた直後,ヨルダン系移民に狙撃され,翌朝死亡。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ケネディ」の解説

ケネディ
John Fitzgerald Kennedy

1917~63

アメリカ第35代大統領(在任1961~63)。民主党員。選挙で選ばれた最年少の,しかも初のカトリック教徒の大統領。典型的な冷戦の闘士であったが,キューバ危機のあと対ソ緊張緩和に転じ,米英ソ3国の部分的核実験禁止条約を実現した。第三世界での共産主義勢力の伸長を懸念して,ラテンアメリカ政策に力を入れ,南ベトナム政府を助けるため米軍事顧問を大幅増員した。ダラスで暗殺されたが,暗殺者も射殺されたのでその背後関係はわかっていない。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ケネディ」の解説

ケネディ
John Fitzgerald Kennedy

1917〜63
アメリカの第35代大統領(在任1961〜63)
アイルランド系。1946年下院議員,52年上院議員となり,60年民主党より史上最年少で大統領に当選し,初のカトリックの大統領となる。アメリカの威信回復のため,「ニューフロンティア精神」を提唱。1962年キューバ危機が起こるが,ソ連のフルシチョフ首相と交渉して東西の緊張緩和に努力し,平和共存の路線を歩み,63年には部分的核実験停止条約を締結した。国内的には宇宙開発,黒人の差別待遇廃止などに意欲的であったが,成果をあげる前に1963年11月22日テキサス州のダラスで暗殺された。

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世界大百科事典(旧版)内のケネディの言及

【アメリカ合衆国】より

…トルーマン大統領時代には,〈1946年雇用法〉が制定され,政府の総需要管理政策によって完全雇用の維持と経済成長に努める一方,対外的には国際通貨基金(IMF)を中心とする国際金融機構,および,自由,無差別な貿易拡大を求めるGATT(ガツト)(関税と貿易に関する一般協定)をてことして,世界経済の復興と発展を目指す体制をつくりあげた。とくに,1961年以降のケネディ,ジョンソン両政権時代には,ケインズ経済学を基礎にした〈新しい経済学〉を実践するために積極的な経済政策を採用した。そこで64年には,投資減税と所得税率の引下げによる大幅減税が実施されて予想以上の効果をおさめた。…

【オナシス】より

…第2次大戦後はいちはやくアメリカ市民権をもつ2児の名義でニューヨークに海運会社を設立し,有利なアメリカ国有船の払下げとタンカー建造に対するアメリカ政府融資を受けて大きな成功を収め,一大海運王国を築き上げた。歌手のマリア・カラス,ケネディ元米大統領夫人ジャクリーンとの恋愛,結婚でも話題を提供した。なお,ギリシア船主の中には,古くからギリシア本国とは非常に関係の薄い特異な海運経営活動を展開している者が多く,この種の船主を一般にギリシア系船主と呼ぶ。…

【平和部隊】より

…アメリカ政府が発展途上諸国に隊員を派遣し,現地の開発計画に貢献することを目的とした活動機関。1960年J.F.ケネディが大統領選挙の公約の一つとして提唱。61年3月発足し,同年9月正式に連邦議会の承認を得た。…

※「ケネディ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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